開院までの道のり。 名古屋市千種区本山駅 鍼灸治療専門 なかやま鍼灸院

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鍼灸ブログ

開院までの道のり

なかやま鍼灸院の考え方 2015.03.30

「ありがとう」と言ってもらえる仕事に就きたいと思ったことが始まりです。老若男女・症状と診療科目を問わず、さまざまな症状で困っている全ての人に対して治療ができることに魅力を感じ、鍼灸師を志しました。

両親の影響からか、子どものころから真面目な性格でした。幼少期は身体が弱かったらしく、親からは「病院へ連れて行くことが多くてタイヘンだった」と聞かされますが、バスに乗ってどこかへ連れていかれた記憶が何となくおぼろげにあるだけです。子どものころからインドア派で、本を読むことが好きでした。小学生の6年間スイミングスクールに通ったことで身体は丈夫になりましたが、当時は肥満気味だったこともあり、水泳以外の運動が苦手でした。勉強の成績は真ん中の少し上くらいでした。よい先生や友人との出会いもあり、小学校の高学年や中学高校では学級委員や生徒会に立候補をするほどの積極性を身につけることができました。

同居していた祖父母を幼くして亡くしたことからか、小学生のころから「生きる意味は何か?」とか「正義とは何か?」とか、いろいろなことを考え込むタイプでした。当時は「特別」に憧れ、「普通」に過ごすことの素晴らしさなど分かっていませんでした。高校を卒業する時、(普通科の高校に通っており、進学させてくれると親が言ってくれたので)将来自分がどんな職業に就いて働きたいかを考えました。

素直な気持ちで出した答えは、「誰かに『ありがとう』と言ってもらえる仕事をしたい」でした。資本主義の世の中でお金が動くということはそこには客観的で明確な価値が存在します。直接「ありがとう」と言ってもらえ、なおかつお金がもらえる。相手の幸せが自分の幸せになる。これほど素晴らしいことはないと思いました。職業として真っ先に浮かんだのは医師でしたが、医学部に入ることのできる偏差値はありませんでした(私は文系人間で、高校一年生で赤点を取ってしまうほど数学が致命的に苦手でした)。医師以外で自分が頑張ることが誰かの喜びになる仕事を探している時に「鍼灸師」という職業の存在を知りました。私は、自分自身が鍼灸治療を一度も受けたことがないのにも関わらず、鍼灸治療の「老若男女とその症状を問わず全ての病める人に対して治療ができること」に大きな魅力を感じ、鍼灸師の道を志しました。親は普通の会社員として勤務をしていたので、安定した仕事(に繋がる進学先)を望んでいたでしょうに、あまりにも突発的な私の決断を話し合いの一つもなしに許してくれた懐の深さが、今になって身にしみます。本当に、親ってすごいですね。

進学先は京都府にある明治鍼灸大学(現:明治国際医療大学)でした。当時、国内唯一の鍼灸「大学」でしたが、私は鍼灸専門学校の存在を知らなかったので、鍼灸師になるための学校はここしか受験していませんでした(広い世間の物事を知らないということは、本当に恐ろしいことです)。明治鍼灸大学では、たくさんのことを学びました。はり・きゅうに関しての東洋医学的な専門科目は当然として、解剖学・生理学などの西洋医学的な基礎医学の履修科目も多くありました。東洋医学と西洋医学のどちらにも偏らないニュートラルな視点を、現代の日本に生きる鍼灸師としての最初の一歩で身につけられたことは、今思うと、とてもありがたいことでした。また、志をともにする友人ができたことも、今思えば大きな価値のあることでした。学園祭の実行委員長としての挨拶をする際10歳上の大切な友人に、「周りへの感謝の気持ちを伝えなさい」と言われました。当時はピンときませんでしたが、今となっては心に染みています。

二度の挫折がありました。死にたいと思ったことも何度かあります。受け入れてくれた親や、心ある人に支えられました。その中で、鍼灸師として生きていくための全てを学ばせていただきました。

鍼灸大学卒業後初めの勤務先は三重県に津市にあるスポーツ疾患に力を入れている整形外科病院でした。リハビリテーション部門のスタッフとして、鍼灸師と理学療法士が同等な立場に置かれていたのは当時としては比較的珍しかったと思います。直接の上司の先生(鍼灸マッサージ師)はオリンピックや世界陸上のなどの国際舞台にトレーナーとして帯同するほどの先生でした。その後ろ姿を追いかけることで自分も世界レベルで必要とされるスポーツトレーナーになりたいという大きな夢を抱いての就職でした。トレーナーとしての勉強もしながら、当然ですが日々の臨床の中で、刺鍼技術・運動器疾患の知識などを学びました。

この病院勤務時代に、私は人生初の挫折を味わいます。簡単に言ってしまえば、「同僚の先輩に無視され続けるというイジメを受け、それに耐えることができず逃げるように退職した」という、よくある話です。私は昔から無視されることに対して強い怒りを覚えます(ですから他人を無視することは基本的にしません)。つらい状況を何度も上司に相談しましたが「原因はお前にある」と言われ、先輩の態度には全く変化もなく、日々嫌な思いをし続けていました。それが一年程も続き、精神的な疲労は極限まで高まりました。それまでの人生では適当に頑張って適当に満足していたのでしょう、「もう駄目だ、この職場を辞めよう」と決心した時に、心の中の緊張の糸が「ブチッ」と切れる音を聞きました。目から涙があふれ、数時間泣き続けたことを今でも覚えています。このころに繰り返し聞いた曲を聴くと、今でも涙がにじみます。

夢であったスポーツトレーナーを諦め、生きる自信を失い、何もする気が起きず、人生が立ち止まりました。この先どうなってしまうのかという不安を感じる余裕もなく、口惜しさと悲しみに打ちひしがれていました。そんな中、鍼灸大学時代の友人が、うちの職場に来ないかと声をかけてくれました。このままではだめだと思った私は、期間を空けることなく再び鍼灸師として働くことにしました。

二つ目の勤務先は愛知県豊川市にある、はり・きゅう専門の鍼灸治療院になりました。しかし、今思えば、このころの私は軽いうつ状態でした。社会復帰するには早すぎたのです。日々自分の無力感を感じ、働く理由も生きる意味も見つけることができず、元気を取り戻すことができませんでした。当然、仕事として自分の役割を果たすこともできず、院長先生や先輩や同僚には迷惑をかけっぱなしでした。そして数年後、再び生きる目的を失ってしまったことがきっかけで、この鍼灸治療院を辞めることにしました。これが、人生二度目の挫折です。

二度目の挫折に、人生に若干絶望しました。しかし、ここで人生を捨ててしまうにはまだやり残したことがあると思い、今までやり残してきたことを全部やろう!と決めました(死ぬのはいつでもできるから)。鍼灸院勤務時代は、それこそ朝から晩まで休む暇なく働き続けていたので、仕事以外のことはほとんどしていませんでした(完全に今でいうブラック企業でしたが、そこに文句を言う気持ちは当時も今もありません。一人前の鍼灸師になるための修行だと納得していました)。今、人生が終わってしまうとしたら心残りになってしまうこと、それは、読みたかった本を読む、観たかった映画を見る、観たかったドラマを観る、柔道の二段を取る(努力が足りず、高校生の時に取ることができませんでした)、100メートル×100本を泳ぎきる(中学生の時にサボってしまったことが心残りでした)、でした。その時点で、それらを果たした先に生きる希望は見出すことはできませんでしたが、実家で親の世話になっていることもあり、ダラダラ続けるのではなく、期限を決めて走りたいと思いました。そこで、それらを1年以内に完遂することを目標にしました。

やりたいことしかしなかったこの1年間は、今思い返しても私の人生の黄金時代でした(2023年現在のほうが、確かに充実していて楽しい毎日を過ごしているのですが、それでもあのころは本当に楽しかったと思えるのです)。鍼灸治療院時代にお世話になった先輩の鍼灸院で受付のバイトをして日銭を稼ぎ(先輩には、ロクに働けず迷惑をかけていたと思います)、夜は週2で柔道場に行って鍛えました。早朝にランニングもしていました。図書館やレンタルビデオ屋に通い、夜な夜な友人の家でウオッカをオレンジジュースで割ったものや友人のお母さん自家製の梅酒を飲みながらいろいろなことを語り合いました。別の友人にも心を救ってもらいました。自分がつらい時に「ただ隣にいてもらえること」のありがたさを知りました。やりたいことをやることで心が満たされ、生きる気力が回復していくのを感じました(ちなみに、100メートル×100本を泳ぎきるのは、泳いでいる途中に体力不足で無理だと悟り、50メートル×100本に妥協しました。それでも心が満たされたのは、やはり、「やれるだけのことをやる」という挑戦をしたからだと思います。柔道二段は取りました。体格が大きいだけの相手に負けたことの悔しさはまだ消えません)。

そんな毎日の中で、「嫌だと思うことをそのままにしておくと魂が腐る」という言葉が心に響き、「心の底から嫌だと思うことをするくらいなら死んだほうがましだ」と決意しました。

そして1年が過ぎ、アルバイトを辞め、やりたかったことの一つである四国お遍路に出たのですが、2日目にして人間の嫌な部分を見てしまい、「自分はこの人たちと同じにはなりたくない。このままでは人間としてダメになる。それは嫌だ」と強く思い、早々と帰郷しました。心の底から嫌だと思うことはするべきではないのです。そこで、今一度自分には何ができるかを考えた時、自分には鍼灸師として生きる以外に道はないのだという結論に達しました。再び鍼灸師として働く気持ちになったことを、迷惑をかけてしまった前回勤めていた鍼灸院治療の院長先生に謝罪を兼ねて伝えたところ、「もう一度ウチで働く気はないか?」との言葉をいただきました。

とても悩みましたが、恥を忍んで再び同じ鍼灸院でお世話になることにしました。再々就職前に交通整理の警備員のアルバイトを2ヵ月ほどしました。引越しのお金もありませんでしたので。月給16万円。暑い季節に外で汗を流しながら働くことのタイヘンさを実感しながらも喜びを感じる部分があり、この毎日でも自分は生きていけると思いました。

再びの鍼灸院勤務も、当然楽ではありませんでした。年下の先輩からのぞんざいな扱われ方にストレスを蓄積しながらも、それから数年後には分院長として名古屋の分院を院長として任されるまでになりました。と言っても、院長先生や先輩や同僚には迷惑をかけ続けていました。

そして、ある日、とことんまでお世話になった院長先生に「すまないが辞めてくれ」と言われました。まるでアメリカのドラマのように「明日から来なくてよい」とクビにされたのです。この件に関しては、お互いにお互いの正義があっての行動の結果だと納得しています。当然院長先生は悪くありませんが、しかし私も悪くなかったと思っています。事実は一つでも、真実はそれぞれの中にあるのです。当時の同僚とはその後連絡も取っておらず、生きるスタンスや考え方や守るべきものや立ち位置の違いだと理解はしていますが、それでもどこか腑に落ちない悲しく寂しいモヤモヤした部分は消えずに残っています。時々夢にみますし思い出すと今でも少し嫌な気分になってしまいますが、この点は、これからの自分自身の人間としての成長が答えを出してくれると思っています。

周囲の人には迷惑をかけっぱなしでしたが、この鍼灸専門の治療院で修業したおよそ10年間の中で、さまざまな症状の患者さんへの治療経験をたくさん積ませていただきました。修行時代に「鍼灸師として生きていくための全て」を学ばせていただいたことは厳然たる事実であり過言ではありません。たくさん怒られ、たくさん励まされました。お世話になった院長先生や大学同期のスタッフに対する感謝の気持ちに嘘はありません。あの時期があったからこそ、今の自分があります。

また、鍼灸治療院での臨床の中では、病院での治療や薬だけでは良くならない症状でつらい思いをされている方々がたくさんいることを実感し、それら患者さんを助けるために鍼灸治療がお役に立てた事実を、数えきれないほど目の当たりにしました。鍼灸治療には人生をかけて続けていく価値があるのだと確信できたことは、今の自分を支える大きな柱になっています。

整形外科病院勤務時代と鍼灸治療院勤務時代、どちらの臨床現場でも、「常に、何が患者さんのためになるかを考えて行動すること」「安全第一」などの言葉を毎日聞かされました。そのための努力や労苦を惜しまないことが当たり前とされる環境の中で過ごすことで、それらの言葉の本当の意味や感覚が自分の中に染み込んでいきました。鍼灸師という仕事は決して楽ではないけれど、症状を改善してつらさを軽減させ喜んでもらうことで、人の心と身体を治し日常を回復させ感動を与えることのできる素晴らしい仕事なのだということを実感することができました。くり返しますが、つらく苦しいことばかりでしたが、今の自分があるのはこの修業時代があったからだと感謝しています。

たくさんの人から受けてきた恩に報いたいと思いながら日々の臨床に励んでおり、患者さんに笑顔になっていただくことに生きがいを感じています。

突然仕事を辞めることになり、数日間は何もせずに過ごしました。しかし金銭的収入がなくては生きていけません。死にたいとも思えません。そこで、自分は何がしたいのかを考えました。そして出した答えは、世界一周の旅に出るか鍼灸師として独立開業するか、の二択でした。世界一周の旅に出れば楽しいこともたくさんあるし人生の可能性も広がるだろうけれど、自分は鍼灸師として生きていきたいし、治療から何年も離れてしまったらいきなり開業するには技術も鈍るだろうし、もう誰かの下で働く気持ちにはなれないし、等と考え、独立開業を決めました。世界一周の旅は、いつかまたしたいと思った時にすることに決めました。開業への道は誰の助けも借りることなく、どこからどうやってお金を借りて何から始めるべきなのかを調べるところから始まりました。そして約5ヵ月後、なかやま鍼灸院を開院しました。

患者さんに喜んでもらうことが一番大切です。そのために鍼灸師としてできることは、患者さんが抱えているつらい症状を軽減させるお手伝いをすることにより、患者さんに少しでも楽になっていただくことです。セルフケアなどの生活指導から食事(栄養面など)のアドバイスなどもお伝えして、最終的には自分自身で症状を管理して健康状態を保てるようになっていただきたいと願っています。治療者と患者は互いの立場を互いに尊敬し合う対等な関係であり、同じ目標に向かって一緒に進んで行く同志でありたいと思っています。そのための自己研鑽として、メディア出演経験も豊富なベテラン鍼灸師に師事して心の在り方を学び続けていたり、断薬を専門とする医師から医原病と社会の構造を学んだり、気鋭の鍼灸師から鍼治療の新しい技術理論を学んだり、医療系コンサルタントから治療院経営を学んだりして、治療者としてのさらなる成長と鍼灸院の維持発展のために日々精進し続けています。

強い言葉を伝えることは、受け取る人を選ぶことになってしまいます。私は、一人でも多くの人に喜んでもらいたいと思って日々の臨床に励んでいますが、それでも結果的に残念ながら、全ての患者さんに喜んでもらえている訳ではありません。万人にとっての最上は共通ではありません(最大公約数はあり得ます)。治療者としての自分を研ぎ澄ませば研ぎ澄ますほどそれに対する患者側の好みも分かれます。「症状を治すこと」を第一の目的にしていない人には、私の言葉は厳しく感じると思います。しかし、患者さんにとって気持ちの良い優しい言葉ばかりでは治るものも治らないこともあり、根本的な変化を促すことはできないのです。だからこそ、私に期待し私を頼ってくれる人には全力を尽くしています。私は、患者さん以上に患者さんのことを考え、患者さんにとって必要な最善の利益を提供するために、患者さんの(つらい症状で苦しんでいる)現状を否定し、(努力をしながらでも)望む未来へ進むお手伝いをしています。

症状を改善させることに、始めることが遅すぎるということはありません。少しずつでも、できることから始めましょう。仮に明日死んでしまうとしても、今日からやり直そうと動き始めることには意味があると思います。身体を治療するとともに心を整えて、健康的に自立できるきっかけを伝えています。心を治すことが最も根本的な治療なのです。患者さんに元気になってもらい笑顔になってもらうことが、私の生きがいです。

なかやま鍼灸院 院長 中山元

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